2009年7月18日土曜日

2009年2月6日金曜日

滲んだ朝の日差し

2009年1月31日土曜日

西の空の意味するところ

日は東より出でて西に沈む。
東は誕生であり、その対極にある西は最期を意味する。仏教では西の方角に極楽浄土があるとされている。人はこの世に生を受けて以降、ずっと西に向かって歩いているようなものである。西の空を見据えて、ひたすら西の方角へその歩を進める。歩まない日はない。この世に生きている者はすべて、日々の生活のなかで西へ向かっているのだ。

ふと西に沈む夕日を見上げる。
なんとも言いようのない寂しさに襲われる。何故、生まれてきたのか。生まれてきて、何の意味があったのか。西に辿りついたとき、その先に一体なにがあるのか。東から出でし者が西に行くまでに、何を成しとげ得たのか。西の地で、この旅は失敗だったと後悔に苛まれることはないのか。また、いつしか東から再び西への旅をはじめることが許されるのか。

西を向いている者には東から昇る朝日は眩しすぎる。
生命力がほとばしり、これから長い西への旅に旅立つ者たちの希望が、既に西への旅の中間点もしくは終幕を行く者たちには皮膚をひりひりと焦げ付かせるほど痛い。東から湧き出てくる者たちに追い立てられているような気分にもなる。しかし、そうは言いながら東から出ずる者たちを羨望するのだ。それは、言うまでもなく生への渇望である。西へ辿りつけば、この一生は終わる。西への旅は一時だけ止めておくなどということは叶わない。だから、尚更羨ましいのである。

とにかく今日は終わった。また、明日も西へ向かう旅がはじまる。
否、寝ている間でさえ西へ向かって、歩きつづけている。休むことなく毎日、毎日。だから、明日こそ西へ向かう旅に意味を持たせてやりたい、と願うのだ。私の旅には必ず、何らかの意味があるのだと。

2009年1月29日木曜日

そこにあるが掴めない物 其の伍

目に焼き付けても、人に伝えることは難しい。

しかし、なんとかこの感情を持ち帰り、人々に伝えたい。仮に写真に写したとしても、この感覚まで写し出すことは絶対にできないだろう。潮の匂いや頬をよぎる風、遠くから聞こえる海鳥の鳴き声など、すべてを写して、持ち帰ることなど不可能なのだ。

すぐそこにあるにもかかわらず、掴むことなど到底及ばないもの、そこにあり自然の営みのなかで滔々と続いていくもの、これは人間には永遠に手に入れることのできないものである。

2009年1月28日水曜日

息子の心

西の空に飛ぶ物体を見たとき、息子の心は大宇宙に舞い上がり、完全に解き放たれた。
息子は地球上のちっぽけな存在であることを忘れて、あたかも宇宙を往来する意識生命体であるが如く、何万光年もの距離を自由自在に飛び回った。しかしそのような素晴らしい時間がいつまでも続くものではない。

実際には地球上のちっぽけな存在であることからは逃げることはできない。

誰しも経験することであるが、中学生の季節は至極、不安定だ。身体的な著しい変化に加えて、心の中が大きく様を変えはじめる。そのうえ、心と身体を司る制御系統に支障をきたすことが多々ある。
息子も例外ではない。
日々、葛藤を続けている。学習に対すること、運動に対すること、興味に対すること、異性に対すること、実に様々な事象に思いを馳せ、混沌とした状態で過ごす。これだけ多くの課題を大人と子供が同居したままの心が処理しきれるべくもない。

息子は何も語らない。
何に悩み、何を欲しているのか、私は一切知らない。
ただひとつ、はっきりと判っていることは、息子の心は確実に成長しているということだ。

肥大し、収縮し、何度もそれを繰り返しながら、

2009年1月21日水曜日

先の見えぬミチ

雪吹き荒ぶなか、自動車を駆る。
何も見えぬ、何もないミチをただひたすら走る。底知れぬ恐怖が我が身を鷲掴みにする。
この先に何があるのかは何人たりとも知るよしもない。とてつもない事象があるやもしれぬが、行くしかあるまい。誰であろうと戻ることは許さないし、第一戻ることなど不可能なのだから。

ただただ氷上を削る四駆の音だけが響くのみである。

2009年1月18日日曜日

希望をこめて明日へ

2009年1月14日水曜日

絶壁

冷たい風のなか、絶壁に立つ。

生きていることを実感するためだ。

生きることは辛く苦しい、が、身をすくませるほどの風に吹かれると、生存本能が始動する。
もしここから落ちたら・・

生きることは湖にできた氷上を歩むようなものだ。一枚氷の下はあちらの世界を意味する。生きている限り、いつ逝くかはわからないのだから。とはいえ、決して逝きたい訳ではない。どちらかといえば、もっと世俗にまみれたいのだ。


ただ、世の中は疲れる。
疲れた心身はあちらの世界に晒してやることで蘇生する。だから、絶壁を覗くのだ。さらに強く逞しく生き抜きたいと願うから、身を乗り出して黄泉の国を垣間見る。

2009年1月10日土曜日

そこにあるが掴めない物 其の肆

静かに舞い降り、ひっそりとひとときを過ごす。時折、風にあおられて流れていく。
このときはまだ掴むことができる。しかし、それも長くはない。気がついた頃には消えてしまっている。

2009年1月4日日曜日

深く荘厳な杜

その杜は幾百、幾千の年月を経てきたという。

人間は生きても、たかだか数十年であろう。と杜の樹々が嗤う。流れている時間が違うのだ。人間は即座に変化を求める。富にせよ名誉にせよ、己が命が短いことを潜在意識で察知しているからこそ、焦らずにはいられないのだ。それを樹々がからかう。

なにを焦る必要があろうか。所詮、一個体で何ができようか。我々は永きに渡り、変化という作業を行う。そもそも変化は永い時のなかにに眠らせて、熟成させる必要があるのだ。それを数年、数十年で成し得ようとは無知以外の何者であろうか。と、樹々はゆっくりとした深い息遣いで語る。

確かに人間は変化を求めすぎる傾向がある。現状がうまくいかないとわかるや、いきなり舵を切る。それも極端な変化の探求を行う。その変化への訴求がうまくいくか、いかないかはどうでも良い。ともかく、変化を求めたという姿勢、まさにそのものを求めているようにも映る。人間ひとりではどうにもならない。親、子、孫、曾孫と何世代にも渡った、首尾一貫した姿勢が必要なのだ。

まずはそこから始めよ。

深く荘厳な杜にある、樹齢数百年の樹々たちは人間にそのように命じている。

2009年1月3日土曜日

澱みゆく負の思考

人の思考方法にはふたつあるという。正の思考と負の思考である。

長い間、負の思考に支配されてきた。
絶望を恐れて、あらゆる物事に期待を持たなくなった。著しく自身喪失し、積極性を失っていた。絶えず自嘲をつづけて、自らの自尊心を切り刻むことで底のさらに奥底へ逃げ込もうとしていた。しかし負の思考は澱むだけで逃げ場がない。鬱々と停滞する思考は腐臭を発するが如く、澱み濁っていく。

思考は生けている人間が行うものである。したがって、思考も生きているのである。新鮮な空気を与えない思考が瀕死の状態になるのも当然である。
鬱積した負の思考は何も生み出しはしない。ただ、その場所に留まり弱っていくだけである。

いかに扉の外が大吹雪であろうとも、まずは歩み出さないか。
そのシューズを履いて、扉を開けてみるが良い。いままで嗅いだことがないような大気が己が鼻腔をついて、脳髄を直撃することであろう。
刺激された髄液は凄まじい勢いで、思考をはじめる。間違いなく思考し始める。それも極上の品質で思考することであろう。

それこそが、まさしく正の思考である。