2009年1月31日土曜日
西の空の意味するところ
2009年1月29日木曜日
そこにあるが掴めない物 其の伍
2009年1月28日水曜日
息子の心
息子は地球上のちっぽけな存在であることを忘れて、あたかも宇宙を往来する意識生命体であるが如く、何万光年もの距離を自由自在に飛び回った。しかしそのような素晴らしい時間がいつまでも続くものではない。
実際には地球上のちっぽけな存在であることからは逃げることはできない。
誰しも経験することであるが、中学生の季節は至極、不安定だ。身体的な著しい変化に加えて、心の中が大きく様を変えはじめる。そのうえ、心と身体を司る制御系統に支障をきたすことが多々ある。
息子も例外ではない。
日々、葛藤を続けている。学習に対すること、運動に対すること、興味に対すること、異性に対すること、実に様々な事象に思いを馳せ、混沌とした状態で過ごす。これだけ多くの課題を大人と子供が同居したままの心が処理しきれるべくもない。
息子は何も語らない。
何に悩み、何を欲しているのか、私は一切知らない。
ただひとつ、はっきりと判っていることは、息子の心は確実に成長しているということだ。
肥大し、収縮し、何度もそれを繰り返しながら、
2009年1月21日水曜日
2009年1月14日水曜日
絶壁
生きていることを実感するためだ。
生きることは辛く苦しい、が、身をすくませるほどの風に吹かれると、生存本能が始動する。
もしここから落ちたら・・
生きることは湖にできた氷上を歩むようなものだ。一枚氷の下はあちらの世界を意味する。生きている限り、いつ逝くかはわからないのだから。とはいえ、決して逝きたい訳ではない。どちらかといえば、もっと世俗にまみれたいのだ。
ただ、世の中は疲れる。
疲れた心身はあちらの世界に晒してやることで蘇生する。だから、絶壁を覗くのだ。さらに強く逞しく生き抜きたいと願うから、身を乗り出して黄泉の国を垣間見る。
2009年1月10日土曜日
2009年1月4日日曜日
深く荘厳な杜
その杜は幾百、幾千の年月を経てきたという。
人間は生きても、たかだか数十年であろう。と杜の樹々が嗤う。流れている時間が違うのだ。人間は即座に変化を求める。富にせよ名誉にせよ、己が命が短いことを潜在意識で察知しているからこそ、焦らずにはいられないのだ。それを樹々がからかう。
なにを焦る必要があろうか。所詮、一個体で何ができようか。我々は永きに渡り、変化という作業を行う。そもそも変化は永い時のなかにに眠らせて、熟成させる必要があるのだ。それを数年、数十年で成し得ようとは無知以外の何者であろうか。と、樹々はゆっくりとした深い息遣いで語る。
確かに人間は変化を求めすぎる傾向がある。現状がうまくいかないとわかるや、いきなり舵を切る。それも極端な変化の探求を行う。その変化への訴求がうまくいくか、いかないかはどうでも良い。ともかく、変化を求めたという姿勢、まさにそのものを求めているようにも映る。人間ひとりではどうにもならない。親、子、孫、曾孫と何世代にも渡った、首尾一貫した姿勢が必要なのだ。
まずはそこから始めよ。
深く荘厳な杜にある、樹齢数百年の樹々たちは人間にそのように命じている。