2008年12月31日水曜日

切り開く人間

運命は万人に平等に働いているのだろうか。

そもそも、運命とは人間の力をはるかに超越した自然界や神の領域にあるものなのだろう。不定法則に従って機能しているはずの運命が均衡を図るはずもない。それとも運命とは人間一固体づつにあるのではなく、全人類に付与された一定分量が非均等にばら撒かれているのかもしれない。そのように考えると、優越感に浸る人間がいることも不遇に嘆く人間がいることもすべて納得がいく。
つまり、運命は万人に平等に働いておらず、極めて不平等に振り分けられているのである。そして偶然にも運命を手にしたものこそ、運命を引き寄せた人間、運命を切り開いた人間として称賛されるのだ。

ここに不遇に喘ぐ人間がいる。
運命に翻弄され、運命から見捨てられた人間だ。この人間のまわりには他の人間が頻繁に集まってくる。良い人間もいれば勿論、悪い人間も多い。ここでいう悪い人間とは悪意のある人間のことではない。潜在的なトラブルを持ち込んでくる人間を指す。
悪い人間はトラブルの種を持ち込んでいるという自覚はなく、むしろこの人間の為になっているとの自負がある。だから、一層トラブルの芽が吹いたときに抑えようのない激高に襲われるのだ。

この不遇の人間自身が激高する悪い人間たちを引き寄せていると見ることもできる。不遇の人間はまだ芽吹いていない、多くのトラブルの種に囲まれていても気付けないでいる。いくら足元でトラブルの芽が大きく芽吹いたとしても、なんら対処しない。そして、トラブルの茎に絡めとられ身体を貫かれて、はじめて警戒を開始する。このような措置の遅さが自らの不遇を作り出していると自覚するべきである。

運命は不平等分配である。不平等分配とは偶然ということだ。
そうすると、運命を引き寄せた人間、運命を切り開いた人間と呼ばれる者たちが、この先も優越感に浸り続けるシナリオは至極、不自然になる。裏を返せば、この不遇の人間が引き続き不幸を招き寄せるのも自然の摂理に反する。

この不遇の人間にも運命が降り注ぐ瞬間が必ずある。
その一瞬のためにするべきことは、警戒を怠らない心だ。日頃から自覚し、足元を見続け、トラブルの種を踏まないように心掛ける。人間関係を見極める鍛錬をいつまでも続けることだ。克己し、強い意志で生活すれば、いずれは切り開く人間となれる。

切り開く人間とは不遇に喘ぎ、這い出そうとする人間のこという。